「経(世)済(民)」
今回は、これまでの社内イベントのご報告ではなく
ちょっと趣を変えたお話しをさせて頂きます。
『経世済民』
という言葉をご存知の方も多いと思います。
釈迦に説法とは存じますが
今回は敢えて小職なりの私見を述べさせて頂こうと思います。
『経世済民』とは、ご承知の通り「経済」の語源です
意味はといえば
Wikipediaにはこうありました
『中国の古典に登場する語で「世(よ)を經(をさ)め、民(たみ)を濟(すく)ふ」』であり『本来はより広く政治・統治・行政全般を指示する語』
であると
いわゆる
為政とそこに暮らす人々の生活とは、決して切り離せないものなのだという事だと思います。
明治期に日本は当時の英単語の殆どに日本語の訳を付けました。
その為、これまで我々日本人は、ほぼ「日本語での教育」を受けることが出来ました。
日本語の訳が無ければ、殆どの教科を嫌でも英語で受けなくてはならなかったでしょう。
(昨今では、日本語に訳されていない単語も増えてきているため、否応なく会話に英単語を使わざるを得ない場面が増えてきておりますが…)
その明治期に英語の『Economy』に「経済(経世済民)」と訳を付した方は、どの様な想いを持って訳を付したのでしょう。
今となっては、知る由も有りませんが
それでも
「世(よ)を經(をさ)め、民(たみ)を濟(すく)ふ」
という想いを持っていのではないのかと思います。
では、現代
この好景気などとは、冗談でも評せない時代に
「経世済民」
は、有るのでしょうか。
アダム・スミスも「国富論」に先立ち「道徳感情論」で
「人間とはどうあるべきか?」「社会とはどうあるべきか?」を著しています。
真に「アダム・スミス」をもって『経済』を考えるのであれば
『経世済民』という想いへ
いま一度、立ち返っても良いのではないでしょうか
最後となりますが
日本人の経営者であれば過たず
社員(民)の生活を濟(すく)ふ為に経営という仕事をしているのだと思います。
小職も微小ながら
その端に身を連ねる者です。
この暗澹たる時代への細やかな疑問に
愚考を徒然と述べさせて頂きました。
m(_ _)m